保室の事件帳

江戸版ホームズ+大河ドラマリメイク。

直虎と呼ばれた女 女地頭と大名たち 十

「何せ今のままでは、武田、今川、松平、どこも定かではありませぬ。ここは但馬殿にお願いして、三人衆の方々の意見を聞くべきであるかと」
「三人衆のうち、誰がいいであろう」
「鈴木殿でしたら、あるいはいいかと」
六左衛門は、この鈴木重時という男をなぜか買っていた。
「しかし三人衆とて、今川家臣であることに変わりはない」
「皆、我々と同じ国衆でございます。何らかの形で今川家から、どこぞの家に乗り換える機を窺っておるやも知れませぬ」
(三人衆は、果たして当てになるのか)
直虎は内心かなりの不安を抱えていた。

直虎はその数日後、龍潭寺へ赴いた。南渓への、父直盛の法要の相談であったが、その時ふとこのようなことを洩らした。
「和尚様」
「何じゃ」
「もし、井伊家が仮にこの井伊谷を捨てなければならぬとしたら、和尚様はどのようにお考えでしょうか」
「何やら、いきなり突拍子もない話じゃの」
南渓はしばらく首をかしげていたが、やがてこう言った。
「捨てればよいではないか」
「左様なことが…」
「そなただけが悩んでも始まらぬ。村の者たちによく言い聞かせて、一度はここを捨てるが、また再興すると約束するのじゃ。ここは長いこと井伊家によって統治されて来たゆえ、誰もその言葉を怪しむまい」
「怪しむまいとは、まるで私が百姓たちを騙すようなことを」
「ははは、これはちとまずかったのう」
南渓は立ち上がり、縁先を眺めながらこうも言った。
「そなたに取って、残したいものを優先するのじゃ。昨今は物騒な情勢が続いているゆえ、誰が攻めて来てもおかしゅうはあるまい。ならばその時に備えて、まずどれを守るかを決めることじゃ。どれもこれもと言うてはならぬぞ。どれを、じゃ」

直虎はその後政次と六左衛門に相談し、まず直之を出仕させることにした。髪が伸びきるまで、直虎の、いわば軍事顧問を務めさせるようにさせた。また南渓に頼み、今度松下常慶が来たら、僧に教えてもらうようにしておいた。この時点で直虎の中には、松平を頼ろうという気持ちが、少しずつ出始めていた。またさらに松平の情報を集めるために、三河へ清蔵を向かわせた。
「殿も、なかなかおやりになりますな」六左衛門は苦笑した。
「二年のうちで、やるべきことが多すぎて頭が痛いわ」
「ところで、この松平家とのことについて、但馬殿はご存知なのでしょうか」
「恐らく、わかっておろう」
「恐らくとは」
「あれはそのような男よ。こちらの考えることは、皆筒抜けであろう」
しかし政次は、直虎が裏で手を回そうとしていることは、まだ知らなかった。彼はむしろ、今川に表向きは服従するつもりでおり、一方で三人衆に話をつけてもらおうと考えていた。この、直虎が独断で動こうとしたことが、後にちょっとした騒ぎとなり、意外な縁を生むことになる。

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直虎と呼ばれた女 女地頭と大名たち 九

方久は苦笑しながら言った。
「それは…難しゅうございますな」
「やはりそうか」
「我々商人は、まずそれが金銭にして如何ほどの物か、それを何よりも考えます。漠然と仰ったとて、それが如何ほどのものであるか、値踏みいたしかねます。しかも領民がいて、そこの米が年貢として御家中に納められているとあっては、この方久が無碍に我がものとするわけには参りませぬ」
「そなたを仮に、そこの主としては如何であろう」
「恐れながら、一度は武士を捨てて商いをしておる身でもあり、左様なことをすれば、太守様が黙っておかれませぬ。我が店もすべて、太守様のお陰で成り立っておりますれば特に」
直虎はため息をついた。やはり井伊家は、どこかに降らなければならないようだった。
(所詮は姫君じゃ)
方久は帰路、直虎の土地や金に対する認識の甘さを考えずにはいられなかった。
(街道筋の遊女の方が、物の価値というものをわかっておる)

直虎はそれから二日ほど部屋に籠った。後見人になってからは、普通の食事を摂るようにしていたが、この時ばかりは、食事は粥と梅干だけでいいととよに伝えておいた。
「どこぞ、お加減が悪うございますか」
「そうではない。色々と一人で考えたいのじゃ」
直虎はその二日間、今後のことに色々と思いを巡らせた。まず村長たちに自分の考えを話し、納得してもらう必要があった。それから井伊谷三人衆にも意見を仰がねばならず、果ては政次を通して、今川にもこのことを再度、正式に伝えなければならなかった。無論、母の祐椿尼にもこのことを伝えなければならなかったし、どの家中に降るかも決めなければならなかった。さらに、それ以外の領主としての仕事があった。
直虎はこれらのことをまず箇条書きにまとめたが、一つかなり気にかかっていることがあった。
(虎松をどうするべきか)
恐らく小野の息子たちはどうにかなろうが、井伊の血を引く虎松のみは、どの家中でも警戒するであろう。そのことについて、しのと話すことになるだろうと思われた。
(それと、越後じゃ)
直之は未だ謹慎中であったが、奥山六左衛門に告げたはずの離縁はしていないようで、恐らくははったりであったと思われた。しかし何よりも、政次の
「それを逆手に取る方法もあるやもしれませぬ」
が、直虎は気になっていた。

その後直虎は六左衛門を呼び、再び井伊谷を取り巻く勢力について尋ねた。六左衛門自身、困ったという表情をしたが、やがてこう言った。
「恐れながら、申し上げたきことが」
「申してみよ」
「武田家があのようなことになり、恐らく太守様との間で戦になるやも知れませぬ」
「しかし盟約は…」
「盟約など、どちらかの都合で簡単に潰せましょう。今回は、武田家の嫡男の正室が、義元公のご息女、太守様の妹君ということで、色々と面倒なことになるかもしれませぬ」
「さればこの井伊家は、どこを頼るべきであろうか」
六左衛門は腕組みをし、しばし考えた。

直虎と呼ばれた女 女地頭と大名たち 八

その後井伊館に直之が呼ばれ、今後の進退を話し合うことになったが、直之はいっかな出向こうとはしなかった。やむをえず、六左衛門が屋敷まで迎えに行ったが、直之はてこでも動く気配を見せなかった。
「それがし、妻と離縁することに決め申した」
「りえん、じゃと」
「左様。そして井伊谷を出て、他に仕官する」
「何を血迷うておるのじゃ、それを殿の前で申し上げよ」
「今川にへつらっておるうちはご免じゃ」
そう言って、直之はいきなり脇差を抜いた。
「越後殿、早まるな」
慌てふためく六左衛門を尻目に、直之は自分の髻をつかみ、断ち切った。
「これでよい。当分の間、武士として出仕せずにすむわ」

六左衛門はことの一部始終を、直虎と政次に話して聞かせた。
「されば越後殿のことは殿におまかせした方がいいかと」
「ようわかった。越後が来ぬのなら私が行くしかあるまい」
そのやり取りを、政次は冷ややかに聞いていた。既に直之不在が二月以上続いており、剣術の稽古にもかなり影響し始めていた。
(このままでは、いずれにせよどこかに降るしかあるまい)
政次はその後、恒例となっている駿府行きの途中で、ある噂を耳にした。既に駿河国に入っていたが、道中の商人と思われる男たちが、最早駿府でなく気賀か、あるいは上方に行くべきかというのを、それもかなり声高に話し合っていたのである。
(商人は利益に聡いゆえ、もはや駿府よりも、気賀の方が実入りがいいのであろう)
政次は今川の目付としての自分と、今川を裏切ることを、主に選択肢として勧める自分の板挟みになっているように思えた。駿府では、氏真が憤懣やるかたないといった表情で出迎えた。
「最近は商人どももここを離れて行くようじゃ。嘆かわしいものよ」
さらにこうも言った。
「我が妹も武田家のどさくさで、まだ甲斐に幽閉されておるようじゃ。早く駿府へ戻らせたい」
政次は氏真に問いただした。
「されば、武田との同盟関係は如何相成りましょうや」
「破棄じゃ。元々あれは、父上が決めたことじゃ。この期に及んで、継続させるものでもあるまい」
またこうも言った。
「松平元康め、家康と名を変えおった。あいつは完全に敵じゃ。最早父上からいただいた元の字など、奴に取ってはがらくた同然なのであろう」

そして直虎は、館に瀬戸方久を呼んだ。今後の井伊家の財政についてであった。
「当家はそなたから借財をしておるが、返済を今少し待ってもらえぬか」
「なかなか難しいお話でございますな」
この時既に四十を超えている方久は、商人とは思えない目つきの鋭さと、経験とでこの井伊家ににらみを利かせていた。
「して、返済できる当てはおありでございましょうか」
「それであるがの、方久」
直虎は、やや表情を硬くしながらこう言った。
「そなたは元々郷士であると聞くが、この井伊の所領の一部を買い取ってもらうことはできるかの」

直虎と呼ばれた女 女地頭と大名たち 七

「殿はつまり、どこかの家中の家臣として、井伊家を存続させるということで」
「やむをえまい。井伊家の兵力や年貢のことを考えると、今後井伊谷の領主を続けることは、難しくなるやもしれぬ」
「しかし、ご先祖代々この地を治めて来て、それはあまりにも…」
「六左衛門」
直虎は珍しく語調を強めた。
「それでは、井伊家そのものが滅びてしまうかもしれぬのじゃ。色々あるが、今はまだ今川家のおかげで命脈を保っておる。しかしもしものことがあれば、他の大名家の餌食となることも、また事実なのじゃ」
実際六左衛門もそれを薄々感じてはいたが、直虎から正面切って言われたことで、この問題が、目の前にある現実として、より一層明確になったように思えた。
「但馬にもこのことを話しておくべきであろうか」
「一応お話になった方がよろしゅうございましょう。かの者を避けて井伊家を仕切ることはできませぬ」

直虎は、虎松や高瀬のことも気になっていた。二人とも新野の屋敷で、ひよと共に暮らしていた。高瀬の世話をしていたまきは、新野屋敷でもかいがいしく働いていた。高瀬は背も伸び、女らしくなっていて、虎松に文字を教えたり、二人で外に出て遊んだりしていた。
「ひよ殿、息災であるか」
「これは殿。おかげ様にて、この屋敷でつつがのう暮らしておりまする」
そこへ新野家の長女、としが現れて、白湯と饅頭を直虎に勧めた。としは、何か言いたげなことがあるようだった。
「何かこの私に相談でも」
「実は、今川家より縁談が参っておりますゆえ、殿に一度お話をと」
「それはよい話ではないか、そなたにか」
「いえ、妹の春にでございます」
それは今川家臣の庵原家の者との縁組であった。新野家も元々今川家臣である以上、これは釣り合いの取れた縁談といえた。
「よいことじゃ、お受けなされ」
直虎はそう言ったものの、この期に及んで縁談を持ち出す今川家のやり方に、不信感を抱いていた。恐らく今川方に国衆たちを抱き込むことで、松平に対抗しているようにも見えた。
(左様なやり方が、果たしていいのであろうか)
直虎は寿桂尼に敬意を表してはいたものの、今川家にかつて抱いていた、畏怖の念はかなり薄れていた。

井伊館に戻ると、政次が六左衛門と共に待っていた。
「まず二つ、お話したき儀がございます」
ひとつは、やはり今後の今川家と井伊家の関係についてであった。自分は今川家の目付であるため、裏切ることはできぬが、今後のことを考えて、いくつか選択肢を作っておいた方がよいということを、この男らしくきわめて明確に述べた。あまりに明確過ぎて、むしろ直虎や六左衛門の方が拍子抜けしてしまうほどだった。
もうひとつは、中野直之のことについてであった。この際井伊家に留まるか、あるいは出て行くかをはっきりさせた方がいいということであった。また直之のことを含め、井伊家に関しては、三人衆に掛け合った方がいいとも進言した。
「何せ、越後のことで今回は今川家に借りを作ったしまったからの」
「あるいは、それを逆手に取る方法もあるやもしれませぬ」
政次は何気なく言ったつもりだが、直虎に取っては、かなり恐ろしげな響きがあった。

直虎と呼ばれた女 女地頭と大名たち 六

「太守様、大方様よりの仰せで、井伊殿を向こうにお通しせよとのことでございます」
「婆様が一体何を」
「おなごのことは、女子同士がよかろうと仰いまして」
氏真は不満げであったが、侍女と直虎に、寿桂尼の居間に行くように促した。尼姿の二人が姿を消すと、そこに控えていた政次に話しかけた。
「婆様は、いつもわしが決めることに口をお出しになる。どちらが今川家の主やらわかりはせぬ」
「大方様は、頭が切れるお方でございますゆえ、つい太守様をお助けしたいとお考えなのでしょう」
「それにしても、いささか度が過ぎておるわ」
一方直虎は、寿桂尼に目通りした。
「そなたが井伊直虎であるか」
「はい」
「そなたとは随分久しいのう、おひさ」
寿桂尼は、かつての名で直虎を呼び、さらに言った。
「面を上げよ」

二十数年ぶりに寿桂尼は、直虎、かつてのひさと対面を果たした。
「いくらか、子供の頃の面影が見ゆるの」
「大方様にはご機嫌麗しゅう存じます」
「堅苦しい挨拶などよい、直虎殿。それよりも徳政令のことであるが」
寿桂尼は、単刀直入に話を切り出した。
「そなた、徳政令を出すのを渋っておるそうだが」
「生憎私は、まだ百姓たちの年貢についても把握しておりませぬ。まだまだ皆に慕われる領主とはなっておらず、それを見定めたうえで決めとうございます。恐れながら、二年の御猶予を頂けませぬでしょうか」
「二年経って、何も変わらぬ時は何とする」
「その際には、井伊の所領を太守様の物といたし、井伊家は太守様のご指示を直に仰ぐことになりまする」
「そなたは、本当にそれでよいのか」
「これ以外に方法がござりませぬ」

その時、庭先で物音がした。さらに今川家の家人たちが騒ぐような声も聞こえて来た。
「あれは、何であろうのう」
「見てまいります」先ほどの侍女が立ち、廊下の向こうへ小走りで立ち去って行った。それからしばらく立って、今川館の前に不審人物がいたとの知らせがあり、家人たちがその男を縛って庭先へ引きずって行った。
直虎はそれを見て驚いた。その男とは、中野直之であったからである。直之はしきりに殿を返せとわめき散らしていた。直虎は、大いに面子を潰された格好となった。
「そちの名は何と申す」氏真が問いただした。
「井伊直虎が家来、中野越後守直之にございます」
さらに直之は、この場で言うべきでないことを口にした。
「太守様、井伊は井伊にござりまする。今川家ではございませぬゆえ、あれこれご干渉はおやめくだされ」
政次は決まりが悪そうに俯いており、直虎は直之を叱りつけたが、とても聞き入れる相手ではなかった。そこで、寿桂尼が口を挟んだ。
「これはこれは、血の気の多い者じゃ。おまけに体も大きい。これだけの男を家臣として抱える直虎殿は、女子といえども、大した器量の持ち主であるかも知れぬぞ」

結局直虎と政次が陳謝し、寿桂尼もその場を取りなして、この件は何とか収まった。しかし井伊谷へ帰還した後、直之は一月謹慎させられた。しかし謹慎の間中もこの男はひたすら文字を書き、素振りをし、酒を飲む有様だった。また、この駿府行きの間に留守居役だった六左衛門は、甲斐方面に行って戻って来た清蔵から、文を預かったと言って直虎に渡した。それには、武田家の家督相続についてのごたごたが記されていた。
「嫡男太郎殿、ご謀反の疑いで蟄居させられる、か」
その後直虎は、六左衛門から遠江周囲の勢力について色々尋ねた。今まで駿河こそ大国と思っていた直虎だが、その東には北条、武田、さらに上杉がいること、そして西にも松平と組んだ織田がいて、この織田がなかなか侮れないことなどを知らされた直虎は、六左衛門にこう漏らした。
「徳政令の件を、二年待ってもらうことにした」
「その二年間で、今川家に代わって井伊家が頼るべき家を探せないであろうか。今の話を聞くに及んで、最早今川家は、義元公の昔には戻れないであろうことを実感した」
六左衛門は、驚きの表情を隠し切れなかった。