保室の事件帳

江戸版ホームズ+大河ドラマリメイク。

直虎と呼ばれた女 井伊家の終焉 九

その少し前、井伊家は今川家による徳政令を受け入れ、領主としての座を去ることになった。今川氏真としては、これで井伊を我がものに出来ると目論んでいたが、その後にわが身にとんだ事態が起ころうとは考えてもいなかった。正確に言えばいくらか考えてはいたが、武田と堂々渡り合える位の力はあると信じていた。無論この時期、今川の家臣の一部は武田または徳川・織田への寝返りを進めていたが、氏真はそれに気づこうとはしなかった。あるいは気づいていても、最早なすすべがないと悟っていたのかもしれない。
ともあれこの駿河侵攻により、今川家の屋台骨は大きく揺らいだ。国衆たちの造反が相次ぐ中、氏真は正室早川殿と山中を抜け、掛川城に身を潜めた。一方、既に領主でなくなった直虎は、家臣たちを三人衆に託し、自らは母祐椿尼や高瀬たちと龍潭寺に逃れた。高瀬はこういう時にも祐椿尼や直虎、そして義弟の虎松の世話を率先して行っていた。
(高瀬が不憫じゃ)
そうは思いつつも、まず直虎が決めるべきことは、恐らく虎松を狙って来るであろう政次を遠ざけること、そして、虎松をしかるべき場所へ逃がすことだった。

直虎は南渓から、三河のとある寺に虎松を匿ってはどうかと示唆された。山中の寺ということもあり、その意味でも身を隠すには安全だった。この辺りの地理に詳しい清蔵が、虎松に同行したものの、途中で今川の者と思しき集団が目に入った。進むに進めず、しかも背後に引けない状態であり、更に自分一人であればなんとかなるものの、まだ年端も行かぬ井伊家の、それも直系の男子を引き連れている以上、責任は大きかった。すると背後の方で、灌木が揺れるような音が聞こえた。
虎松の姿を隠し、辺りを窺うように見た清蔵の目に飛び込んだのは、ほかならぬ松下常慶だった。
「清蔵だな」
清蔵はうなずき、身を潜めていた虎松をその場に連れて来た。
「虎松君、今日中に鳳来寺へお連れ致しますので。どうぞそれがしの言葉にお従いくださいませ。そして清蔵、お前も」

一方朝比奈泰朝が守る掛川城では、その後半年ほど経って籠城が解かれ、氏真は助命となった。早川殿の父北条氏康は、この時の武田の盟約破りに対し兵を差し向けたが、それのみで武田を撃破できるものではなかった。さらに遠江にも食指を伸ばしたため、最終的には氏康と家康、そして氏真の間でまず武田を駆逐し、その後氏真は駿河国主となる取り決めがなされた。しかし結局その後、氏真が駿河の主となることはなかった。
今川方の不利はなおも続いた。堀江城城主である大沢基胤が、徳川の猛攻を耐えきれずに、ついに徳川方に付いたのである。その後この大沢氏は、徳川家臣として生き残ることになった。またこの戦乱によって気賀は大きな損失を受けることになる。そして直虎は、政次や六左衛門と共に、法衣姿のまま三人衆を出迎え、その後しばらくはこの状態で旧井伊領の政が行われた。政次が虎松のことを知っているかどうかは、無論定かではなかった。

スポンサーサイト

直虎と呼ばれた女 井伊家の終焉 八

その後清蔵は井伊谷に戻り、見聞きしたすべてを直虎に話した。直虎は清蔵を下がらせ、再び六左衛門と話し込んだ。
「これではうっかりしておられぬ」
「あるいは、但馬殿がそれに絡んでおられるやも知れませぬ。殿もご用心を」
「私もだが、問題なのは虎松じゃ。但馬は虎松を狙うておるやも知れぬ」
直虎は大きくため息をつき、独り言のように吐き捨てた。
「なかなかうまくは行かぬものじゃ」
さらにこうも言った。
「むしろ、徳川殿にすべてをゆだねられると思う方が間違いなのじゃ」
その後直虎は侍女を呼び、酒と酒肴を持って来させた。
「六左衛門、そなたの分も一緒に」
「いや、それがしはこれにて…」
直虎は一人で、気が済むまで酒を飲み続け、気を紛らわした。かつて酒に溺れることがあった曾祖父の気持ちが、この時初めて理解できたような気がした。

その頃高瀬が、侍女から聞いたと言って祐椿尼の部屋にやって来た。
「祐椿尼様、殿がかなりお酒を召し上がっているとのことにございます」
「まことか」
祐椿尼は評定の間へ行き、酔いつぶれている直虎を見つけた。侍女に掻巻を持ってこさせ、その場に突っ伏している娘にそれをかけてやった。
「祐椿尼様、後は私が」
「高瀬、そなたはもうよいゆえ休んでおれ」
その後日の出の頃に、直虎は目を覚ました。酒のせいで頭の奥がうずくように感じ、掻巻からどうにか這い出たところで、祐椿尼が転寝をしているのに気づいた。
「母上、なぜこのようなところで。お体に触りまする」
祐椿尼は目を開け、直虎に問いかけた。
「昨夜はどうしたのじゃ。そなたがかようなことをするとは」
「母上、私はもう領主としては生きていけませぬ。我が領民も家臣も、私のような至らぬ者が領主であっては、気の毒という他ありませぬ…」
そこで直虎は大粒の涙を流した。そこへ高瀬が挨拶に来たが、直虎の様子を見て言葉を失った。祐椿尼はひそかに高瀬に目で合図を送り、高瀬もそれを理解した。それは、直虎がこの有様ゆえ、いつも朝の挨拶に来る虎松を、来させぬようにしてほしいということだった。

その日の昼過ぎにまつがやって来た。朝にかなり取り乱した直虎も、いくらか平常心に戻っていた。
「殿、実は伺いたいことがございまして」
「申してみられよ」
「義兄(あに)のことでございますが」
直虎は政次のことと聞き、ふと警戒した。
「義兄はあまりお勤めのことを家では話しませぬ。しかし先日どういうわけか私に、井伊家に何事かあっても、殿と自分を信じておけと申しまして。それが気になった次第にてございます」
直虎はしばし考え、まつにこう伝えた。
「まつ殿、今は太守様のお力が危うくなり、徳川殿、武田殿と三つ巴の状態になっておる。その時この井伊家をどうやって守るか、それはこの直虎と但馬がどのようにするかということじゃ」
「左様でございましたか」
「但馬はこの井伊家随一の忠臣であり、頭も切れる。私もそなたの義兄を信じておる。それゆえ、何か事が起こった場合も案じてはならぬ」
まつは一礼して引き下がった。その後遠江の領主の何名かが、今川家によって誅されたとの噂が飛び込む中、年も押し詰まって、武田軍が薩埵峠を越えて駿河に攻め込んで来た。

直虎と呼ばれた女 井伊家の終焉 七

「一体何を言うておるのじゃ。徳川殿との仲を取り持ったのはそなたではないか」
「しかしそれがし、太守様に対して忠義を貫きとうござりますれば」
「そなたはこの井伊家でも第一の忠臣じゃ。考えてみてはくれんかの」
政次は一礼してその場を去った。
(困ったことになったものじゃ)
直虎は何やら梯子を外されたような気がした。今までの進言も、徳川家との関係強化も、政次がいたからこそ何とかなった部分もあった。しかし当の政次が外れるようでは、その関係にもひびが入りかねない。
(六左衛門に話してみるか)
越後こと中野直之は、未だに政次にいい印象を抱いておらず、またこの手のことを相談できる人物でもなかった。あの温厚な六左衛門であればどうにかなるかも知れぬと、直虎はわずかな期待を抱いた。

一方高瀬は桜の枝を壺に活けていた。それを見ていた祐椿尼が、嬉しそうに目を細めた。
「そなたもいい女子に育ったものじゃ。これでどこにでも嫁に出せる」
「祐椿尼様、私にはまだそのつもりは…」
「いや、そなたは勝手回りのことも出来るし、縫物も見事じゃ。どこに出しても恥ずかしくない娘である」
高瀬は枝を活け終わると、気になっていたことを切り出した。
「実は先ほど、殿をお見かけしたのですが」
「直虎殿か、如何しておった」
「何か考え込んでおられました」
「左様か…太守様のことなど色々とあるのであろう」
高瀬はその後、虎松に桜を見せるべく奥の部屋へ行った。祐椿尼は、直虎のその様子がどこか気になっていた。

直虎は翌日、井伊館に来た六左衛門に例の件を切り出した。
「そなたは如何に考える」
「但馬殿がでございますか。そこまで太守様への忠義が篤いとは知りませなんだ」
「しかし大方様が亡くなられ、最早今川家もどうのようになるかわからぬ。あの男がそれだけで太守様に付くものであろうか」
「何か裏があるということでございますか」
「そうではないかと思うが、それがよくわからぬ」
「清蔵をお使いになっては如何でございましょう」
しかしその時、清蔵は当の駿河にいた。恐らくは武田の間者と思われる商人と親しくなることで、武田の内情を聞き出そうとしていた。その時、この両者の正体を知らない別の男が、いささか無防備に声をかけて来た。
「うちの客の話だと、遠江の国衆たちもまとまらぬらしいのう」
「左様であろうのう」清蔵が平静を装って答えると、その男は声を潜め、さらにこうも言った。
「何でもな、刃向かう領主たちは皆無事ではいられないとよ。こうなっては、俺もいよいよどこか別の土地で商いを始めた方がいいかもな」

直虎と呼ばれた女 井伊家の終焉 五

「さればお引き止めは致しませぬ」
清蔵はこう言い、更に念を押した。
「但し今は駿河にも、甲斐の間者どもが多い由にございます。その旨お気をつけられますよう」
直虎はうなずき、駿府へ向かうことになった。今川館では、今なお彼女を今川の味方と思い込んでいる氏真が出て来て、挨拶もそこそこに話を切り出した。
「松平信康が、今度は徳川と名を改めおった」
「とくがわ、にございますか」
「何でも都で松平という名を卑しめられ、新田氏の末裔ということにして名を改めたらしい。下卑た男よ、その辺りは所詮は国衆じゃ。しかも藤原氏であったのを源氏にしたらしい、あの男天下でも取るつもりか」
直虎には、何やらそれが当てつけがましく聞こえ、今日は見舞い故とその場を早々に立って、寿桂尼の寝所へと向かった。寿桂尼は半ば身を起こし、脇息にもたれていた。
「おおおひさ、いや直虎殿。よう来られたのう」
「大方様のことを案じつつ、つい遅くなり申し訳ございませぬ」
「そなたも色々忙しいであろう。この尼もまだまだやらねばならぬことはあるが、どうにも体がついて行かぬ」
「大方様はもはや、花を愛で、歌をお詠みになる暮らしに入られているのかと」
「それがそのようにも行かぬのじゃ。三河の松平、いや徳川というたか、あれがまた勢いを取り戻しておってのう。こちらも頭の痛いことよ」
その後しばし直虎の幼少時代、そして花の話などをした後、寿桂尼は直虎の手を取り、顔を凝視してこう言った。
「のう、直虎殿。そなたはいつまでもこの今川を忘れないでたもれ」
直虎は一瞬戸惑ったが、すぐに平静を装ってこう言った。
「大方様、私はいつも今川家とひとつにございます」

その頃三河では、ちょっとした騒ぎが持ち上がっていた。瀬名の侍女の一人が、行方知れずになったのである。もう一人の侍女と連れ立って使いに出、そのままはぐれてしまったと言うのである。
「どのようにしてはぐれたのじゃ」
「街道筋から少し入った場所で、しばし休息を取り、その後忘れものをしたと言って取りに戻ったのでございます。あまりに時間が掛かるので、見に行ったところ誰もおりませんでした」
この侍女は瀬名が信頼を置いており、また奉公して三年ほど経っていて、下の者を取り仕切るようになっていた。部屋の掃除などもまかせており、例えば文や覚書なども、見ようと思えば見ることができた。
「もしや、直虎殿の文を見られたのではあるまいか」
もしその侍女が間者で、井伊が徳川に付くことが知られようものなら、今川の立場はより脆くなり、同時に、自分が機密情報を流したと疑われることにもなりかねなかった。

井伊谷に戻った直虎は、その後三人衆と会った。いずれも徳川に付く用意があることを聞き出し、更に次なる手段として、村の者たちを説得しておく必要があった。
(井伊家を潰すための準備であるの)
自分が直親から引き継いだはずの井伊家を、自分が潰そうとしているのは、何やら滑稽でもあり、かなり恩知らずなことであるともいえた。
(しかし、領主を辞めねば井伊はまことに潰れるのじゃ)
直虎は翌日から村を守り、村長たちにこのことを話し、他者には言わぬよう念を押した。皆一様に驚いた様子で、中には、井伊家の支配でなければ村を離れると言う者もいた。
「頼むから聞いてほしい」
徳政令の期限を迎えるまでは井伊家の支配であり、その後この地に入るであろう家とはよく話をつけておくこと、もし領主でなくてもこの地に留まること、そして、次の領主と絶えず連絡を取ることなどを数回にわたって説き続け、ようやく理解を得ることができた。その中で、最も年若い村長の留吉が、直虎に尋ねた。
「それで殿、次はどのような御家がお入りになるんですかい」

直虎と呼ばれた女  井伊家の終焉 四

直虎は思うがままに筆を走らせた。無論詳しく書くのは避けたが、これが瀬名の目のみに触れると信じて疑わなかったのは、彼女の落ち度であるともいえた。文を認め終わってから、直虎は侍女にそれを渡し、瀬名の許へ届けさせた。この役は清蔵が請け負った。清蔵も三河の様子を見がてら、忍び仲間と会うつもりでいた。瀬名の許に文が届いたのは、その十日ほど後だった。岡崎城での同居が、義母於大の方によりままならず、築山御殿に一人暮らす彼女に取って、この文は徒然を慰めるまたとない相手でもあった。

その頃清蔵は三河で、忍び仲間の佐吉と会っていた。三河のことなどを話しているうちに、ふと話題が甲斐のことに及んだ。甲斐では武田信玄が、嫡子義信に切腹を命じ、新しい嫡子として、側室諏訪御寮人との子である勝頼を立てていた。
「ところがな、あっち方面の忍びによれば、これはどうもお家を二分しかねないらしい」
「側室との子が、そこまで火種になるのかね」
「なるともさ。この勝頼様は諏訪御寮人のお子で、諏訪家を継ぐ予定の方だった。そして諏訪家は、元々武田家が滅ぼした相手。そのお子が武田家の御当主となれば、古くからの御家来衆はいい顔をするまい」
「なかなか複雑なことよのう」
「このご時世、大名の間では親子で戦なんてこともあるからな。しかしそれだけでは済まないらしい」
「済まない、とは」
「何でも武田の殿が、駿河や遠江、三河にまで攻め込むらしいぞ」
「また一騒動起きるというわけか。武田家も信濃を諦めたとたんにこれだ」
「それで武田の者たちが、間者になってこの三河にも流れ込んでいるらしい。お前さんとこも気をつけといた方がいいぞ」

清蔵が三河から戻ると、直虎と六左衛門が何やら話していた。挨拶だけをしてその場を通り過ぎようとした清蔵に、直虎が声を掛けた。
「のう清蔵、近いうちに駿河に行きたいのだが、今の情勢はどうなっておる」
「どうなっておる、と申されますと」
「駿河がどこぞに攻められるということは、当分ないと見ていいのか」
清蔵は返事に窮した。佐吉の言い分では、今日明日にでも攻めてくる様子ではなかった。清蔵はその場に跪いてこう言った。
「恐らく、ここしばらくの間は何もないかと」
そしてこう尋ねた。
「殿、誠に失礼ながら、駿河へはどのようなご用件で」
「寿桂尼様のご容体がよろしくないので、見舞いに行くのじゃ。あの方と私とは浅からぬ縁があるからのう」