保室の事件帳

江戸版ホームズ+大河ドラマリメイク。

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直虎と呼ばれた女 二人の次郎 三

一方次郎法師は、直親夫妻に祝辞を述べた後、曾祖父直平に勧められて祝い酒を口にした。出家の身であると再三断ったのだが、直平が少しだけならいいじゃろうと絡み、直親が間に入って、一杯だけ口にすることになったのである。その酒は、甘味があるもののかなりつんと来て、まずくはないが、さほど美味な物でもなかった。
次郎はそれから龍潭寺に戻り、直親夫妻と自分の関係がどうなるのか、思いを巡らせてみた。恐らくことがうまく行けば、直盛から直親へと井伊家は受け継がれ、さらに直親に嫡男が生まれたら、その子へと受け継がれるのであろう、しかしその間戦が起こり、井伊家の継承に差し障りでも出たら、一体どうなるのであろうか。一介の出家の身ではあったが、井伊家の娘であり、しかも還俗できるという選択肢を持つ以上、今後のことについて次郎はまだ決めかねていた。

その頃今川家では、義元の嫡男である氏真が、北条家の娘を嫁に迎えていた。また、今川館で見かけた瀬名が、今川家に人質に出されていた、松平竹千代と結婚することになった。既にこの当時竹千代は元服し、義元の元の字を貰って、名を元信と改めていた。瀬名はこのことを、文で次郎に知らせていた。清蔵が持参したその文を読んだ次郎は、松平元信という若い武将が、この先今川の家臣となって行くのだろうと思い、いくらかの興味を覚えた。
また義元は検地を行った。無論井伊家の領地もその対象となったが、ここで問題になったのが、直平が領地の川名に隠し持っている田畑であった。直平はこの地を、南北朝時代の親王であり、井伊谷にもゆかりのある宗良親王の御料地としていた。検地に立ち会うに当たって、そのことを政次から教えられた直親は、その旨をはっきり伝えており、また今川の家臣たちもこの件を黙認し、すべて丸く収まった。

しかしこの弘治元(1555)年、今川家に不幸があった。義元が師と仰ぎ、軍事や内政の顧問としても頼りにして来た太原崇孚雪斎が、60歳で亡くなったのである。これによる義元の落胆は大きかった。また、この人物から学問を教授された松平元信も、その死を惜しんだ。また病死ではなく、毒を盛られたのではないかとか、あるいは、今川に反発する国衆の仕業ではないかなどといった流言飛語もあったが、義元は悉くそれらを無視した。
しかし葬儀が終わった後、義元は氏真を呼び、国衆との付き合い方について教えた。国衆というものは、寛容すぎても、あるいは厳しすぎてもよくないことを述べ、そなたが跡目を継いだ場合には、このことをよく心しておくようにと諭した。義元も近いうちに、尾張の織田信長との間で一大決戦が起こることを覚悟していた。以前から織田とはしばしば衝突しており、いずれその時が来ることは、火を見るより明らかであったため、伝えるべきことを伝えておきたかったのである。

井伊谷では直親が、祝田でひよとの新婚生活を送っていた。次郎は農繁期にはしばしば村へ行き、刈り入れなどを手伝っていた。その時、次郎はよからぬことを耳にした。直親が日が暮れてから村へ行き、百姓女と会っているというのである。しかも二人の間には子供がいるなどという話まで、耳に飛び込んで来た。井伊家の跡継ぎの話ということで、この話はまたたく間に村に広まった。
この話は、直盛とお千佳の耳にも入った。直盛は直親を呼び、事の真偽について尋ねたが、直親は、百姓に相談を持ちかけられて、村に出向いたことはあるものの、女のことなどは一切知らないと言い通した。そのうち、この噂をばらまいた者が発覚した。嘉助という百姓で、祝田の村長の甥に当たる男であった。直盛は嘉助に尋問した。

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