保室の事件帳

江戸版ホームズ+大河ドラマリメイク。なお「蜂曽我部家の怪猫」については、大河リメイクの「跡を継ぐ者」が終わり次第アップ予定です。

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直虎と呼ばれた女 二人の次郎 六

次郎は奇妙な思いにかられていた。本来自分が寺に入ったことは、井伊の本領安堵と引き換えのはずだった。それを還俗せよというのは、本領安堵の件はどうなってしまったのか。次郎は直盛に尋ねてみた。案の定、直盛からはこのような答えが返って来た。
「そなたを、今川家の家臣と目合わせれば、本領安堵の件は許すということじゃ」
やはりそうか、と次郎は思った。今川家中の人となるのは気が進まないが、それでも瀬名や夫の元信と会うことはできるかもしれないし、今川の違った面が見えてくるかもしれなかった。しかし、やはり次郎に取って、それは考え難いことだった。
「父上、私は井伊総領家の娘でございます。もし井伊に今後何かありました時に、今川家中に嫁いでいては、できることもできなくなるやも知れませぬ。ありがたいお話ではありますが、やはりお断りしたいと思います」
直盛はうなずいた。この娘の性格からして、一度決めたことを、後から覆すというのは恐らくなかろうと思った。新野は言った。
「されば、この件はまた、我が娘にでも」

その年も新緑の季節となり、井伊家は戦準備に追われていた。井伊家では直盛のほかに、奥山朝利とその息子の孫一郎、そして小野但馬守政次の弟の、玄番も加わることになった。玄番はその前に、奥山の娘でひよの妹のまつと結婚しており、既に男児を儲けていた。直親は、子がまだということで出陣は見送られた。本人はこれを初陣としたがっていたが、嫡子がない状態で、もし討ち死にでもすることがあってはという、直盛の配慮だった。
やがて井伊軍は尾張に向けて発つことになった。無論兵たちの中には、今川に従うことに対し、複雑な気持ちを持つ者もいたが、今回は手柄を立てることが先決と訓戒した直盛は、馬上の人となった。直平はこの期に及んで、今こそ今川義元の首を狙う時ではないかと言ったが、直盛は冷ややかにこう言い返した。
「爺様、私が首だけで戻って参りましたら、ぜひご自身でそのようにしてくださいませ」
その頃松平元信も、金溜塗具足と呼ばれる黄金の甲冑を身に着け、大高城へ向かっていた。彼がこの城に滞在中にもたらされた知らせが、その後の彼の人生を大きく変えることになる。

次郎は井伊、ひいては今川の勝利を祈願していた。その後外に出ると、梅雨時ということもあり、大粒の雨が落ちて来ていた。この雨が、戦を大きく決定づけることになるかもしれないと次郎は思った。
一方井伊軍をはじめ今川の兵たちは、雨のためしばし休息を取っていた。直盛や朝利、そして玄番は、織田とはどのような侍であるのかを、声高に話し合っていた。うつけ者と聞くがという直盛に対し、朝利は、それは噂だかけも知れませぬぞと答えていた。どのような相手であれ、早く手柄を立てたいものでございますと言う玄番。この弟は兄と違い、ひとから好感を持たれる人物で、この場でも一番若いということもあり、雰囲気を大いに盛り上げていた。
そこで孫一郎が戻って来た。何やらかなたの方で、大きな声らしきものがしますが、あれは何でございましょうと言う孫一郎に、父の朝利は、この雨で崖崩れでも起きているのではないかと答えた。しかしその音は段々と近づいて来て、井伊軍をはじめ本陣を守っていた諸軍に襲い掛かった。

それから先はあっという間だった。年若く、戦場での経験がない玄番は、織田兵を相手に戦うも討ち死にし、直盛と朝利は脚に傷を負った。一人孫一郎が何とか斬り防ぎ、義元の本陣へ向かおうとしたが、その時には織田軍の多くが、義元の本陣めがけて突き進んでいる状態だった。義元の輿を目当てに本陣を探し出した織田軍は、警備に当たっていた兵を次々と薙ぎ倒した。ついには大将である義元自身が、自ら応戦しなければならなくなった。
これまでと見た義元は、輿でなく馬で退却しようとしたが、味方の兵はその数を減らし、ついには織田の兵に追いつかれて首を獲られた。首を獲ったのは、毛利良勝(新助)であったといわれている。その頃直盛と孫一郎、そして朝利は東へと馬を走らせていた。三人は途中で道を違え、朝利は孫一郎に、殿をお守りするようにと言って走り去った。しかし直盛の怪我が予想外に重く、途中で数回落馬し、そのたびに孫一郎が手を貸す有様だった。

それから一里ほど駆けて、直盛は馬を止め、孫一郎に言った。
「孫一郎、ここでわしの首を取れ」
思いがけない言葉に孫一郎は当惑した。
「何を仰せられます。井伊谷はもうすぐでございます」
直盛は首を振った。
「最早これ以上は体が言うことを聞かぬ。そなたの手に掛かって死にたい。そして首を取って、織田の兵を装ってその場を切り抜けろ。お千佳と次郎に会えなんだのが残念だ」
脚の傷が、恐らく化膿し始めているのであろう、直盛は痛みで額に脂汗を浮かべながら、孫一郎の前にひざまずいた。
「孫一郎、早う」
孫一郎は主の側に回り、直盛が自刃をしたのを見計らって首を獲った。その後こっそり西へ向かう振りをしながら、山道を通り抜け、井伊谷へ馬を速めた。

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