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保室の事件帳

江戸版ホームズ+大河ドラマリメイク。

三人の弟子達 三

「これはまた、随分とそうそうたるお弟子さんたちですな」
「ありがたいことです。こういう方たちが私の句を学んで、さらにお仲間に広めてくださるわけですから」
「ところでお比瑠さん」
保室は座り直し、何かを問い詰めるような表情になった。
「貴女は先ほど、机の周りにしみらしきものがあると言いましたね」
「はい」
「これは当然、奉行所の役人も知っていますね」
「はい」
「お手数ですが、そのしみについてもう一度教えていただけますか。もし今貴女のお部屋に入れるのであれば、失礼ながらお邪魔させていただきたいのですが」
お比瑠は少し迷ったものの、我々を連れて奥まった部屋へ行き、そこの戸の錠に鍵を差し込んで回した。鍵は帯の間に挟まれており、彼女がこの鍵を肌身離さず持ち歩いていることが窺えた。
「こちらです。何せあの事件以来、ろくに掃除もせず汚らしくなっていますが」
部屋の中は多少散らかってはいたが、保室の机の周りを知る私にしてみれば、かなりきちんとしていると言ってよかった。
「今もこちらでお仕事をなさっているのですか」

「いえ、今は先ほどの文机を主に使っています。お役人からも、許可が出るまであまり使わないでほしいと言われておりますので」
保室は中を見渡し、何度かうなずいた。そして我々はその部屋に入ったが、しみはすべてふき取られていた。何でも墨をこぼしたような跡があり、さらに泥の塊のようなものが落ちていたらしい。
誰かが侵入したことだけは明らかだが、お紅が句集を盗んだのでなければ、誰がどうやって入ったかになる。その部屋は一方に窓があり、明り取りの障子がはめ込まれていたが、それ以外に人が出入りできそうな場所はなかった。
「すみません、あの窓の障子を開けていただいていいですか」
お比瑠は窓のそばへ行き、障子に手をかけた。その間保室は何があったのか、急に声を上げそうになり、しかし我慢してそれをこらえた。お比瑠は聞こえなかったのか、そのまま障子をがらりと開けた。我々はお比瑠と共にその窓から外を見た。
窓の外は軒下になっており、その向こうに梅の木が一本と灯篭がある以外は、塀が巡らされていた。その向こうに長屋が見えた。お比瑠が、長屋の者に用をさせていると言っていたのを、私は思い出した。保室ももちろんそう思っていたようだった。
「あの長屋の者に今は家事を任せている、そうですね」
「はい」
お比瑠はうなずいた。

何でもこの近くに、先ほどの隠居の一人の店があり、そこの使用人が主に住んでいるらしく、お紅を実家に帰らせた後に、それでは不便だからと長屋の住人を寄越したのも、その隠居だったらしい。
「ここからだと外から誰か入っても、すぐに見つかりますね」
「仰る通りです。しかもこの窓も、大人が一人やっとくぐり抜けられるほどの大きさですから」
保室は次に、句集をどこに置いていたかについて尋ねた。お比瑠は書棚だと答えた。彼女が、かなり位置がずれていたと答えた書棚である。
「その言葉に従えば、やはりお紅さんも下手人ではありませんね。貴女の部屋を掃除していて、句集がどこにあるかはおわかりだったでしょう。恐らくこの家に慣れていない者がどうにかして忍び込み、句集を捜し回った末、お目当ての物を見つけ出して、それを持って逃げ出した。しかし下手人は、どうやら落とし物をして行ったようですな」
保室はそう言って、先ほど声を上げそうになった場所に戻り、何かを拾い上げた。どうやらおがくずのように見えた。
「それは一体何でしょうか」
お比瑠が尋ねた。
「珍しいですね、西洋で使われている木筆ですよ」
保室はその木筆の屑を興味深そうに見た。

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三人の弟子達 二

私は正直なところ、あまり乗り気ではなかった。俳句そのものにさほど興味があるわけではなく、また句集がなくなったという事件そのものが、あまり食指が動くものでもなかった。やめておくと言おうとしたところで、保室がいきなり声を上げた。
「どうしたんだ、一緒に行こうぜ。これは意外と複雑なやつかも知れない」
長年事件を解決して来た経験もあるのか、保室の言葉はやけに自信に満ちていた。結局私も草履を履いて、保室と共にそのお比瑠の家へ向かった。
その家は趣味のいい、こじんまりした家だった。保室が玄関に向かうと、中から戸が開けられ、この間とは違った、緑の着物を着たお比瑠が立っていた。
「お待ちしておりました」
お比瑠は自ら茶を淹れて、私たちに勧めた。
女中はどうしたのかと保室が尋ねると、句集を盗まれたことを自分の責任だと思い込み、かなり辛そうなので、しばらく実家に帰していると言う。
「お紅がいないと何かと不便で…代わりの女中を捜そうかとも考えています」
「お紅さんと言うのですね」
「はい。もう五年使っていますが、かなりの働き者で、本当によくやってくれました。今は取りあえず、この近くの長屋の者に家のことを任せています」
保室はしまったという顔をした。その気持ちには私にも理解できた。何せ我々は、そのお紅なる女中のことを知りたくてここへ来たのである。

あるいは、お比瑠がそのことを事前に察知して、お紅を逃がしたのではないか、私としてはそう考えたくもなった。しかし保室は、別の方向から話を切り出した。
「あの句集についてですが、貴女の師匠の方のものだそうで」
「はい、ご存知かと思いますがかなり高名な俳人で、弟子の間では、与謝蕪村の再来とまで言われていたものです」
「ほほう、そうですか。で、下手人の形跡らしきものはありましたか」
「そうですね。まず、机の周りにしみらしきものがありました。そしてその机をはじめ書棚が、かなりずれた位置にあったことからして、句集を捜し回ったことが窺えました」
お比瑠はよどみなく喋った。あまりにも落ち着いているので、あるいは彼女の自作自演ではないかとさえ私は思った。無論、保室にこのようなことを言えば、お前さんはまだまだ素人だと笑われるに違いないが。
一方保室は、お比瑠にこう尋ねた。
「貴方と女中のお紅さん以外に、鍵を開けることのできる人はいますか」
お比瑠は強く頭を振った。
「とんでもありません」
「たとえばお紅さんがどこかに鍵を置き忘れて、誰かがそれを盗んで貴女の部屋に入り、句集を盗んだ後元に戻したとか」
「いえ、お紅はよくやってくれていました。そのようなことをする女ではありません」

傍から見る限り、お比瑠はお紅を信じて疑っていないようだった。
「わかりました。では今度はお弟子の方について伺いたいと思います。貴女の句会にいつも顔を出すお弟子の方の名前を教えていただけますか」
「はい。まずとある藩の江戸詰でいらっしゃる柿崎様、宿屋の後家のおせんさんと、商家のご隠居が三人。この方たちはよく顔をお出しになりますし、お作りになる句もなかなかのものです。他にも家督を譲られたお武家様や、まだ若い娘さんもおられますが」
「そのご隠居方のお名前は何と言われますか」
お比瑠は傍らに会った文机を引き寄せて、紙に名前を書いて渡した。
「このような場所にも机があるのですね」
「句というのは発想です。何かいい考えが浮かんだ時に、書き留めておかなければなりませんので」
保室はうなずき、お比瑠から渡された紙に目を通した。
そこには
「桐倉堂の甚兵衛
田浦庵の羅輔
幕張屋の舞蔵」
と書かれていた。
三人とも、名だたる店の隠居たちだった。

三人の弟子達 一

栖太郎が持って来た事件というのは、俳句好きな商家の隠居とその師匠に関するものだった。
「しかもその師匠というのが、年の頃三十絡みのなかなか器量よしの女でして」
「お前さんの口から、そんな言葉を聞くとは思わなかったな」
「源さんから遊びでも誘われたんじゃないかな」
私がそう言うと、栖太郎は慌てたような口ぶりでこう言った。
「そんな…順庵先生まであんまりじゃないですか。この保吹田栖太郎、年の二十歳ともなれば、女人への関心もそれはありますし」
「にょにん、か。何か大層な言葉だな」
保室が笑いながら言った。
栖太郎はいくらか顔を赤くしながら、とにかく話を聞いてくださいよと、その事件なるものの説明を始めた。ことの次第はこうだった。
宗門流のお比瑠という女流俳人が、大事にしていた句集を盗まれてしまったらしい。そして、弟子である商家の隠居たちにも、どういうわけかその疑いがかかっていると言うのである。
「そのお比瑠は何て言っているんだ」
「いやそれが…とにかく弟子たちの誰かが出来心で盗んだのではないかと、そればかり口にしておりまして」

「一度そのお比瑠に会ってみたいものだな」
「やった、保室先生はそう来なければ」
「おいおい一体何だ、俺のおだて方も源さんに習ったのか」
「いや、そんなことは特に…では早速話して来ます。明日でもいいですか」
栖太郎が話をつけてくれて、翌日の午後お比瑠が梅花町にやって来た。私はその時患者がいて不在にしていたので、お比瑠の印象はすべて保室から聞いたものである。
保室曰く、年の頃三十半ばほどの背の高い痩せた女で、多少神経質なところがあった。濃い藍色の着物を着ていたので、その細さが際立って見えた。そして例の事件について、興奮したような口調で喋り始めた。
お比瑠は半月ほど後に、弟子を呼んで句会を開くことになっていた。出来のいい弟子には、何らかの褒美を与えることにしており、例の隠居たちはお比瑠に三年あまり師事していた。お比瑠自身は十八の頃にその才能を認められ、師匠から独り立ちして弟子を取るように勧められていた。中には弟子となって十年ほど経つ者もおり、隠居たちは決して長年の弟子とは言えなかったが、懐が豊かなこともあり、夏と冬にはよく贈り物をしてくれた。
盗みが起こったのは、五日前のことだった。お比瑠は自分の部屋には錠をかけており、自身か信頼している女中しか、部屋に入ることはできなかった。ところがその日、部屋の錠が勝手に開けられて書類が散乱し、彼女の師の句集がなくなっているのに気づいた。

女中に訊いても知らないと言う。これは大変だと思い、近所に住む岡っ引きにこのことを知らせて、調べて貰うことにした。何せ句会を開いて、優秀な句を作った者には褒美が出るのである。彼女の部屋に忍び込んで句集を盗み出し、中の句を捩って自分の作品のように見せかける者がいたとしても、無論おかしくはなかった。
「しかし、褒美のことくらいで師匠の部屋をかき回すものかね」
「それはわからん」
保室は右手であごをなで、さらに続けた。
「人間、その気になれば何だってやれるものだからな。今まで関わって来た事件を見てもそうだろう。およそ普通の人間には想像もつかないことを、平気でやらかす者も多い」
「それで、錠をこじ開けたのは誰なんだ。お比瑠と女中しか鍵は持っていなかったんだろう」
「引っかかるのはそこだよ。お比瑠は疑っているようだが、弟子たちはたぶん鍵のことを知らない。お比瑠は句を教える時は座敷でやってたし、部屋に入った時に誰かがついて入ったか、それはたぶんありえない。ならば問題は女中だ」
「でもお比瑠が信用している女中じゃないのか」
「それはそうだが、お比瑠自身に何の問題もなければ、その女中を疑うしかないだろう。どれ、お比瑠の家に行ってみるとするか。後で来てくれと言われたんでね。順庵先生も来るかい」

保吹田栖太郎の初仕事 九

栖太郎と源さんは呆気に取られていたが、保室はこれで納得したと言わんばかりに、こう決断を下した。
「先生、貴方のお弟子の次郎兵衛がいまわの際に言い残した言葉、これはもちろんそこにいるお恵さんのことですよ」
するとお恵が、保室の言葉を遮るようにして言った。
「私に話をさせてください、貴方のお考えとほぼ同じだとは思いますが」
保室がうなずいたので、お恵はあらんかぎりの憎悪を込めた視線を無徳斎、正しく言えば高羅無徳斎の方に投げ、堰を切ったように喋り始めた。
「あの夜、私は方向もよくわからないままあてずっぽうに廊下をさまよって、この部屋にたどり着いたわ。すると貴方がここにいた。ことのついでだから、いっそ貴方も一突きにと思ったの。何せかつては貴方の仲間よ、人殺しの術くらい覚えていたわ」
無徳斎は黙りこくったままだった。
お恵はさらに続けた。
「でもこの部屋には武器になりそうな物はなかった。だから私は唯一の証拠品である手紙を見せて、このことを役所に知らせてやると言ったの。なぜそうしたのか、今ではわからない。ただこの人を憎む気持ちがあまりにも強かった、そうとしか思えないの」
「お恵、お前があまりにも…」
無徳斎が何か言いかけるのを、お恵は制した。

「そう、私はあまりにも無鉄砲だ、そう言いたいのでしょう。だから貴方はそこの隠れ部屋に、私をしばらく閉じ込めることにした。駆け引きね。私は貴方のゆるぎない証拠を持っていた、でも貴方はそれでは困るから、雨に濡れた子猫を拾うような感じで、私に一時の隠れ家を与えた。貴方が今朝ご飯のお代わりをしたのは、私に食べさせていたから。さあここの皆様、この男が何をしていたかもうおわかりでしょう。私はもう言い残すことはないわ」
そう言ってお恵は、帯の間から何かを取り出して口に入れた。
私は大急ぎで彼女に近寄り、吐き出させようとしたがもう遅かった。お恵は私に例の手紙を渡しながら言った。
「もう遅いわ。私を憐れむのなら、この手紙をお役人に…」
無徳斎はうなだれていた。源さんと栖太郎は無徳斎を連れて行き、保室は主がいなくなったこの部屋を、尚も手掛かりとなる物を求めて、あちこち移動していた。
「おい、もう下手人も悪だくみもわかったんだろう。早く家に戻ろう」
「いや、この煙草だが、薩摩のだな。無徳斎は恐らく、薩摩とも関わりを持っていて、ご公儀に対し江盾突こうとしたのも、それが原因だったのかも知れない」
「煙草と言えば」
私は保室に注意しておこうと思ってこう切り出した。
「いくら捕り物のためとは言え、今回はあまりにも煙草をふかし過ぎたな」

その後源さんと栖太郎は、この事件の功労者として、上役の筆頭同心から褒められたらしかった。
「一番の功労者は、お前さんじゃないか」
私が保室に言うと、保室は何ら興味のなさそうな顔をして答えた。
「最初に話を持って来たのは保吹田栖太郎だ。俺は乗っかったに過ぎないし、それを言うのならお恵も功労者と言っていいだろう」
「しかしよく隠れ家がわかったな」
「何の、あそこに棚があること自体不自然だし、無徳斎が俺とやり取りをしている間、あの棚の方に何度か目をやっているのに気づいていたんだ。しかも無徳斎がかなりの量の食事をするのも気になっていた。もちろん元からそうだとも言えたが、おすさがお代わりをなさったと言った時、これは誰かと分け合っているのではないかと思った」
「よくそこまで考えるな」
「俺はそう考えないと気がすまないたちでね」
保室は縁側に向かって脚を投げ出し、またどこかで食事でもするか、源さんと栖太郎にも奢ってやろうなどと言った。私に取っては、同心として初めて現場に派遣されたのが、こういう奇妙な事件である栖太郎に、いくらか興味を覚えていた。
その後三か月ほど経ち、今度は栖太郎が一人で、商家の隠居三名が事件に巻き込まれたと言ってやって来た。

保吹田栖太郎の初仕事 八

一方保室の目は輝いていて、普段青白い顔に赤みがさしていた。絶対的な自信がある時の顔だった。
「この事件に関して見聞きしたすべてのもの、それを練り上げて私は回答を出しました。女は貴方がおぜん立てした通りに書見部屋に入り、書類を盗もうとした。しかし女がいつ入って来るかわからず、貴方は部屋から出て行きました。そしてその部屋には代わりに次郎兵衛一人が入って来て、一人で書見部屋にいたのです」
無徳斎は黙り込み、保室は話を続けた。
「そこへ入って来た女は、当然ながら次郎兵衛ともみ合いになります。しかし女は盗みが目的でした。殺しが目的ではなく、そのためもみ合っていて次郎兵衛を刺したのです。女は気が動転したに違いありません。しかも眼鏡は次郎兵衛が握っていて離さず、仕方なく女は眼鏡なしで暗闇の中をさまよい、この部屋にたどり着きました。そしてこの部屋には貴方がいた」
「何をおっしゃる。ならば今もその女はここにいるということか、冗談もほどほどにして貰いたい」
「冗談ではありません。私は煙草盆を手にしながらこの部屋を歩いていて、不自然なものを感じました。あの押入れの前の棚、あれがなぜあるのか気になっていたのです。普通押入れというのは物を出し入れします。ああいうのがあると邪魔で仕方ない。つまり、あの棚で何かを隠さなければならない、そういうことになりますね」

無徳斎は表情を険しくした。保室は栖太郎に合図をし、栖太郎はその棚を横にずらした。その陰に隠れていたふすまが開き、中から大柄な女が出て来た。顔立ちは、保室が言っていた通りで、あの眼鏡は、この女の顔の骨格に合わせて作られたとしか思わなかった。栖太郎は女の腕をつかもうとしたが、女はそれを払いのけ、無徳斎に向かってこう言った。
「私は一度御用になった身です、逃げも隠れもしません。そして無徳斎、貴方のこともすべて話してあげます。皆さま、この男はかつて御公儀転覆を企てた者の一人、佐羅寺碓之介(さらじうすのすけ)です」
無徳斎は女につかみかかろうとしたが、源さんがそれを止めた。と言うよりは、女の方が体が大きく、無徳斎がこのまま組み敷かれたとしても不思議ではなかった。女は髷がほつれ、埃にまみれた顔で尚も続けた。
「私はお恵です、めぐむという字を書きます。そしてこの人とは二十年ほど前、ある蘭学塾にて知り合いました。私は男装して蘭学塾に通っており、この人はそこの教師だったのです」
お恵はここまで喋ると、少し休んでからまた続けた。
「私はその時、この人と夫婦(めおと)になる約束をしました。しかし私にはその前に既に夫がいました。つまるところ、夫と勝手に離縁させ、自分のものにしてしまったのです。私はこの人を恨みました。しかも事件が発覚した際に、この人は行方をくらまし、私たちが御用となりました」

「その内実行犯たちは死罪となり、私の前の夫である荒井久司郎は遠島を申し渡されました。そして最大の裏切り者であるこの人は、名前を変えて生き延びているのです。学者として」
無徳斎、いや無徳斎と名乗っている碓之介は震える手で煙管を手にし、一服してからこのように言った。
「お恵、お前が真面目で何事にも熱心なのはわかる。だから御公儀転覆の誘いにも素直に乗った。もしあの時誘いに乗らなければ、今の惨めな姿もないに違いない」
お恵は、無徳斎こと碓之介を睨みつけ、こう言った。
「自分だけ逃げておいて、しかも夫や他の仲間たちの文書をすべて独り占めにして、その言葉はありませんよ。とにかく私は、貴方が奪って行った文書を取り戻そうと必死になりました。貴方が文書を準備しているから待っていろと言って来た時、やっとこれで改心したのだと思っていたのに、貴方があのたんすに入れていたのは、全く違う文書だったわ。ひとを馬鹿にしないで」
お恵は今度は我々や源さんの方を向いて、憎しみのこもった口調でこう言った。
「あの中にあったのは、唐の国の文書ばかりで、夫やその仲間、もちろん私の文書などどこにもありませんでした。ただその中に一つだけ、この件に関しての手紙があり、私はともかくそれを懐に入れて出ようとしたのです。するとこの人の弟子がやって来て、くんずほぐれつの挙句、相手の刀でこの弟子を刺してしまいました」